ハッカーの系譜⑦ビル・ゲイツ (6/7) シアトルに移転、そしてIBMとの交渉

牧野武文

September 1, 2016 10:00
by 牧野武文

マイクロソフトは創業した年、すでに10万ドルの売上をあげた。小さな会社としては大成功だったが、頼みのMITS社の雲行きがおかしくなってきた。MITS社は、アルテアで急成長したものの、企業体質はラジオ店のときのそのままであり、不良品をだすことも多く、プロモーションも積極的とはいえなかった。アルテアの成功を見て、コモドールのPET、タンディのラジオシャックTRS-80といったマイクロコンピューターも続々登場してきた。

ポルシェに乗って、故郷のシアトルへ

マイクロソフトとしては、そのような新興のコンピューター企業とも取引をして、BASICを供給すればビジネスを大きく拡大することができるが、MITS社との契約がじゃまをして、ビジネスを拡大できなかった。そこで、MITS社との契約を見直す動きにでたが、落ち目になっていることを自覚しているMITS社はよく思わず、契約の見直しは難航をした。

また、ビジネスを拡大しようにも、アルバカーキという立地では優秀なプログラマーを集めることもむずかしかった。ゲイツは移転することを考えた。候補地のひとつはシリコンバレーだった。すでにシリコンバレーで起業をして、株式公開をねらうIT企業が集まり始めていた。アップルなどもそのような企業のひとつだ。そこにいき、IPOレースに加わるのもひとつの方法だった。もうひとつの選択は、ゲイツとアレンの故郷であるシアトルに帰ることだった。ゲイツは、どちらがいいか迷っていたが、アレンは圧倒的にシアトルを支持していた。社交的なアレンは、シアトルに多くの友人知人がいる。その中でも優秀な者たちが、マイクロソフトで働きたがっていた。しかし、アルバカーキという遠方であるために二の足を踏んでいたのだ。シアトルに帰れば、そういう連中がマイクロソフトに合流してくれる可能性が高かった。

そう言われると、ゲイツにもシアトルが最適であるかのように思えてきた。今後、マイクロソフトが発展していくには、優秀なプログラマーをどれだけ集められるかにかかっていた。しかし、IT企業が多くあるシリコンバレーでは常に優秀な人材を引き抜かれることを心配しなければならない。シアトルならその心配は小さかった(後年、シアトルにもグーグルのオフィスができ、マイクロソフトからグーグルに移籍するものが続出し、「マイクロソフトは、グーグルの養成機関」と揶揄されるようになる)。さらに、シアトルは雨が多く、プログラマーたちは遊びにいかず、仕事に専念してくれるのではないかという理由もあったという。

このとき、マイクロソフトの売上は100万ドルに迫ろうとしていた。さらにステップアップするには、アルバカーキという田舎町をでて、都会にいく必要があった。

このとき、マイクロソフトの社員数は13人だった。移転前、13人のうち11人がスタジオにいって、記念写真を撮影している。写っている男性のほとんどはヒゲを生やすか、メガネをかけているが、ゲイツだけはこざっぱりした少年のような風貌をしていた。企業のポートレイトというよりも、反戦運動かなにかの集会の記念写真のように見える。その中でも、ゲイツは風貌が一段と幼かった。

1978年12月7日撮影 下段の左端にビル・ゲイツ、右端にポールアレンがいる。Photo by Wikipedia

すでに忙しくなっていたゲイツは、アルバカーキからシアトルまでの2300kmを愛車のポルシェに乗って帰ることにした。時間がかかるが、時速160kmで疾走すれば、20時間かからずに到着できるはずだった。しかし、そうはうまくいかなかった。途中で2回も、スピード違反で捕まり、時間を無駄にすることになったからだ。

ネクタイ姿で望んだIBMとの打ち合わせ

ゲイツは、生涯を通じて、服装に関してはまったく無頓着だった。後年、中国を訪れて鄧小平と面会したときにもジーンズにシャツ姿であったという逸話があるほどだ(この逸話は都市伝説、あるいはジョークであって、きちんとスーツは着ていたという。しかし、北京空港に降り立ったときのゲイツは、ジーンズにバックパックひとつの姿だった)。しかし、マイアミで午前10時から始まる会議に、ゲイツは神経質になっていた。夜行便でマイアミ空港に到着したゲイツと新しくマイクロソフトに加わったバルマーたちは、すでに約束の時間ギリギリだったが、ゲイツは車を百貨店に寄らせた。「会議に遅刻をしても、飛行機が遅れたという言い訳ができる。しかし、ネクタイをしていないのは許されない」とゲイツは説明した。会議の相手は、あのIBMだった。

マイクロソフトにとって、最大の幸運となったIBMへのMS-DOS供給の話が始まろうとしていた。ゲイツ自身も「自分の人生の中で、最大の幸運」と述懐している。確かにIBMへのMS-DOS供給は、マイクロソフトにとって棚から牡丹餅に等しい幸運だと言っていい。IBMは当時から巨大企業だったが、マイクロソフトは社員数20人程度の零細企業にしかすぎない。しかも、IBMとの話がもちあがったときは、マイクロソフトにはMS−DOSなど影も形もなかったのだ。しかし、ゲイツは、この棚から牡丹餅を受けとめるために、棚の下にいく努力をし続けていた。

1978年、インテルからCPU、8086が発表された。その前の8080は、多くのパーソナルコンピューターに採用され、ホビイストの間では標準CPUといってもいい地位を占めた。しかし、8080の本来の使用目的は、信号機などの制御用だった。ホビイストたちが勝手に流用をして、パーソナルコンピューターという文化が始まった。それを見たインテルは、パーソナルコンピューター用のCPUとして、8086を開発したのだ。

しかし、他の半導体メーカーも同じことを考えており、8086が業界標準になるかどうかは微妙なところだった。最大のライバルは、モトローラーの68000で、この2つの内のいずれかが業界標準になるだろうと考えられていた。その段階で、ゲイツは8086が業界標準になると考え、8086用のBASICの開発に入っていた。これがIBMとの接点をつくることになったのだ。

寄せ集めでつくることになったIBM PC

IBMは当時、オフィスコンピューターを企業に納入するビジネスで潤っていたが、パーソナルコンピューターが普及するにつれて、顧客からパーソナルコンピューターをオフィスコンピューターの端末として使いたいという声が上がり始めた。しかし、IBMにはそういう小さなコンピューターを開発する技術も部署も存在しない。そこで、アタリなどからOEM供給する話が検討されたが、すぐに却下された。IBMのプライドが許さないのだ。

そこで、独立事業体方式でパソコンを開発することに決まった。社内で開発をするのではなく、既存の部品を集めて、組み立ててパソコンを開発する。これは、失敗した場合の保険ともなり、成功した場合の保険ともなる。万が一、失敗した場合は、この独立事業体だけを閉鎖するだけで済む。開発や製造をおこなうのではなく、既存部品の組立作業だけなので、投資金額は最低限で済む。

一方で、既存部品を寄せ集めるということは、他社も同じ部品を使えば、同じ製品がつくれることになる。他社もIBMのパソコンを模倣した製品をつくってくることが充分に予想できる。しかし、それはIBMにとって悪いことではなかった。仕様はIBMのオフィスコンピューターに接続しやすいものになるのだから、他社がIBMのクローンパソコンをたくさんつくればつくるほど、IBMの本業であるオフィスコンピューターの分野では有利になる。後に、オープンアーキテクチャーと呼ばれるようなったこの考え方は、IBMのビジネスを有利にするものだった。

IBMは、マイクロソフトという新興企業の名前をほとんど知らなかった。しかし、パソコンのプロジェクト「チェス」が立ち上がると、ソフトウェアをかき集めなければならなくなった。そのソフトウェアには、当時としては当然プログラミング言語であるBASICが必要になる。IBM PCはインテルの8086を採用することが決まっていたので、8086用のBASICを開発しているところを探すことになる。そこでマイクロソフトの名前が浮上してきたのだ。8086BASICを完成させているのは、マイクロソフト以外になかったからだ。

IBMとマイクロソフトの会議の席上、IBMはパソコンをつくるチェスプロジェクトの仕様詳細をゲイツに隠して交渉にのぞんだ。まず、マイクロソフトの8080用BASICを購入したいともちかけたのだ。すると、ゲイツはその提案を一蹴した。「なぜ、もはや古いテクノロジーである8080BASICをほしがるのか。最新の8086でパソコンをつくり、そこにマイクロソフトの8086BASICを走らせるべきだ」と主張したのだ。IBMのスタッフは、この若いーーというより幼く、高校生のように見える経営者に驚かされた。ゲイツは、次から次へと巨大企業であるIBMの社員に向かって、「こうすべきだ」とアドバイスを口にしていくが、それがことごとく、IBMが構想していることと一致していたからだ。

自社アプリを売るために、他社のCP/Mを紹介する

この当時のPCのプログラミング言語は、BASICとその他で違いがある。BASICは現在でいうOSの機能を含んでいて、PCとBASICがあれば、PCを使うことができる。ただし、使えるアプリケーションは、BASICで書かれたものだけになる。一方で、FORTRANなどの他の言語は、それだけではPCは動かない。現在と同じように、なんらかのOSが必要で、言語はその上で動く。アップルの場合は独自のアップルOSを開発し、その上でVisiCalc(表計算ソフト)などを動かしていた。

IBMは、BASICだけでなく、FORTRAN、COBOL、Pascalなどの言語も提供してほしいとマイクロソフトに提案してきた。ゲイツは、そのような言語を供給するのであれば、OSが必要だという話をした。そして、デジタルリサーチ社のCP/Mが最適だという話をした。なぜなら、マイクロソフトのBASIC以外の言語は、CP/M上で動作する設計になっていったからだ。8086が登場した現在、デジタルリサーチは当然CP/Mの16ビット版、CP/M-86を開発しているだろう。それであれば、マイクロソフトも微細な修正で、各種言語をIBMに提供することができる。ゲイツは、自らデジタルリサーチ社のゲイリー・キルドール社長に電話をして、IBMとデジタルリサーチの仲介までおこなった。

“肉食”ビジネスマンであるゲイツが、敵に塩を送るようなことをするのは意外に思えるが、当時は「OSを握る者が業界を支配する」という考え方はなかった。ゲイツの頭の中では、プログラミング言語を開発し、販売するということしかなく、OSはそのときシェアの高いものを使えばいいというものにすぎなかった。

マイクロソフトとデジタルリサーチの関係は、共生関係だった。マイクロソフトはOSの開発をしないし、デジタルリサーチは言語の開発をしないという暗黙の了解があったと周囲は見ていた。しかし、その関係はしだいに崩れ始めていた。デジタルリサーチは、マイクロソフトに対抗する言語であるCBASICをCP/Mにバンドルして販売するようになった。しばらくして、マイクロソフトはAT&Tと契約し、UNIXのパソコン版XENIXの販売を始めた。それぞれが、ライバルと競合する製品を販売することになったが、CBASICはマイクロソフトの脅威にはならず、XENIXはデジタルリサーチの脅威になることはなかった。デジタルリサーチのCP/Mを使い、その上で走るマイクロソフトの言語を使うというのが、事実上の業界標準になっていたのだ。
 
(その7 最終回に続く)




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