連載:ハッカーの系譜④アラン・ケイ (3/7) 誰もが使えるコンピューターを生み出せ

牧野武文

October 13, 2015 08:00
by 牧野武文

マウスの発明があまりにも有名になったために、エンゲルバートのもうひとつの優れた発明は見逃されがちである。そのもうひとつの発明とは、コードキーセットのことだ。コードキーとは、小さなピアノのように、5つの鍵盤がついた片手用キーボードのこと。コードはcodeではなくchord(和音)の意味だ。5つの鍵盤は、それぞれの指に対応し、押す押さないの選択ができる。つまり、2×2×2×2×2=32通りの入力ができるわけだ(実際には、「すべて押さない」は入力ができないから31通り)。

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エンゲルバートが生み出したコードキーセット Images By Wikipedia

当初はこれでアルファベット26文字の入力をしようとした。フルキーボードを使うよりも簡単ではないかと考えたからだ。エンゲルバートの当初の目論見は、キーボードをなくして、左手でコードキーセット、右手でマウスを使うというものだった。しかし、これはチームの研究者から評判が悪かったし、エンゲルバート自身もコードキーセットで文字入力をするのは無理があると感じだ。5本の指を正確に操らなければならず、ピアニストでもなければ、フルキーボードの方がはるかに扱いやすく、速かった。

しかし、エンゲルバートはコードキーセットの新しい使い方を発見した。それは、マウスクリックの種類をコンピューターに伝える道具としてコードキーセットを利用したのだ。マウスにはボタンが1つしかついていない。この1つのボタンだけで、操作をコンピューターに伝えるのには無理があった。マウスのボタンを押すと、その矢印の位置の座標がコンピューターに伝えられる。しかし、ユーザーは、画面の中のその位置でいったいなにをしたいというのだろうか。その場所の位置を指定したいのだろうか、それともそこにあるテキストを選択したいのだろうか、あるいはその場所にポップアップメニューを開きたいのだろうか。

エンゲルバートは、このマウスのボタンを押して、その場所でなにをしたいかをコードキーセットで伝えることにした。コードキーセットのある鍵盤を押しながら、マウスボタンを押すとメニューが開くなど、マウスボタンの動作をコードキーセットが伝えるようにしたのだ。

このアイディアは、今でも使われている。たとえば、マウスをクリックするときに、controlキーやshiftキー、optionキーなどを押しながらクリックすると、通常とは異なる動作をクリックに与えることができるようになる。これはコードキーセットの影響なのだ。

さらに後になって、このコードキーセットをマウスの上に乗せてしまえと考えた人がいた。こうして、3つボタンマウス、4つボタンマウス、5つボタンマウスなどが誕生してきた。3つボタンマウスでは、左ボタンが選択、中ボタンが位置指定、右ボタンがメニューを開くなどと割り当てられることが多い。これは「コードキーセットをマウスに乗せる」という発想からきているのだ。

世界を変えた90分間の歴史的デモンストレーション

1968年、エンゲルバートはNLSの研究成果として、スタンフォード研究所で90分間の公開デモンストレーションを行った。この公開デモは、その後のパーソナルコンピューターの流れを決定づける歴史的なものとなった。既にエンゲルバートの研究はコンピューター科学者の間では評判になっていたので、この公開デモには約3000人の専門家が押しかけた。

この90分間のデモは、現在ネット上ですべてが公開されているので、ぜひ一度見ていただきたい。確かに、モニターの文字表示やグラフィックのデザインは時代を感じさせるが、そこで実演されている内容はとても50年近く前のものだとは思えない。テキストのカット&ペーストはもちろん、遠隔地にいる人とのビデオ会議、さらには遠隔地のユーザーと画面を共有して、同じテキストとグラフィックを共同編集する。今日のMacのFaceTime(ビデオ会議)、メッセージ(画面共有ができる)よりも使いやすそうに見えるほどだ。

最初のマイクロコンピューターと呼ばれるAltair8800が登場するのが1974年、モニターとキーボードがセットになったApple IIが登場するのが1977年のことだ。その10年近く前に、今日のパーソナルコンピューター並みのグループワーキングを実現しているのだ。公開デモに参加した若いコンピューター科学者やエンジニアは誰もが興奮し、熱狂した。間違いなく、このデモの中に未来を見ていた。

しかし、若くない科学者の意見は違っていた。「一人一人がコンピューターを持つようになる世界」なんてありえないと考えたのだ。今から振り返れば、彼らは想像力を欠いていたことになる。ただ、当時はそう考えるのも無理はなかった。まずコンピューターがあまりにも高価すぎ、とても個人が購入する価格にはならないし、コンピューターの操作自体も難しく、専門教育を受けなければ使いこなせないと考えられていた。市民全員がコンピューターを持つのは無理な話で、もし持てたとしても、市民は意義のあることには使わないだろうと考えらえれた(この部分は彼らの予想も正しかった。私たちは現在、スマートフォンというコンピューターをほぼ全員が持ち歩いているが、用途のほとんどは暇つぶしゲームとLINEだったりする)。言ってみれば、「全家庭に小型原子力発電所が設置される」「全員が自分のジェット機を所有するようになる」というのと同じぐらい、非現実的でナンセンスな話だったのだ。

1974年、ARPAはNLS研究は一定の成果を見たとして、研究資金の打ち切りを決定した。その結果、スタンフォード研究所は、エンゲルバートとNLS研究チーム47人の研究者の人件費を捻出することができず、全員を解雇することになった。1978年になって、スタンフォード研究所はNLSに関する知的所有権を民間のタイムシェア社に売却したため、エンゲルバートと研究者23人がタイムシェア社に就職し、NLSの研究を続けることになった。しかし、タイムシェア社の経営陣が要求したのはNLSの完成ではなく、NLSの技術要素を分割して、商品化することだった。この商品化開発はなかなかうまくいかず、成果は上がっていない。1984年、今度はタイムシェア社が航空機製造のダグラス社に買収された。ダグラス社の経営陣は、NLS技術の商品化を厳しく迫ってきた。

1988年、エンゲルバートはダグラス社に見切りをつけ退社し、自分でブートストラップ研究所を設立して、NLSの研究を続けることにした。そして現在でも、エンゲルバートはNLSの研究を続けている。しかし、個人研究所であるため、資金調達がうまくいかず、これといった成果を上げるには至っていない。NLSは、1968年の歴史的なデモを頂点に、しだいにフェイドアウトしてゆく。未来を垣間見せてくれたNLSは、「マウスの発明」という副賞のような名誉だけを残して歴史の間に埋もれてしまった。しかし、あの歴史的なデモは、パーソナルコンピューターの種を着実に撒いていた。なぜなら、あの熱狂した3000人の観衆の中にアラン・ケイがいたからだ。

ロバート・ハインラインの『深淵』に魅了された子供時代

ケイは1940年5月17日、マサチューセッツ州スプリングフィールドで生まれた。父は生理学者、母は画家で音楽家だった。教養水準の高い家庭で育ったケイは、小さい頃から神童と呼ばれた。2歳半ばで文字が読めるようになり、小学生の頃には年間400冊以上の本を読む読書家になっていた。10歳でラジオの人気番組「クイズ・キッズ」で優勝し、ちょっとした有名人になっていた。

しかし、学校では問題児だった。教師が一定の価値観を強制してくることに耐えられず、常に反抗的な態度を取り続け、中学では退校処分を受けたこともある。救いになったのは、好きだったSF小説だった。著名なSF作家ロバート・ハインラインの『深淵』(日本では『超能力戦隊』として出版されている)を読み、その中に登場する高速語機械に魅了された。それは知識がデータ化された「ライブラリアン・マシン」から高速で聞くことで理解できるというものだった。ケイは、その箇所に注釈が打たれていて、バネバー・ブッシュのメメックスという機械が紹介されていることに気がついた。早速、ケイは図書館に行き、ブッシュの論文を読んだという。

高校を卒業して、ベサニー・カレッジに進学したものの、大学が面白くなかったのか、ロックバンドに加入し、ギタリストとしてその日暮らしをしていた。この頃は、大学に進んで研究者になるか、ギタリストとして生きていくか、相当に悩んだようだ。

1961年になると、徴兵され、否応なく空軍に入隊することになった。ケイは、できるだけ早く除隊できるように、プログラマーの適性試験を受けて合格することができた。そのトレーニングの中で、上官はケイの才能を高く評価した。ケイは兵役義務を終え、除隊したが、上官は空軍の国立大気研究センターに所属させたまま、コロラド大学に留学させるという形で、ケイに科学を学ばせることにした。

1966年、ケイは分子生物学と数学の学士号を取得したが、空軍はさらに大学院に進学させる資金を提供することにした。このとき、ケイはジャズにも夢中になり、ジャズギタリストと生きていくか、そのまま大学院に進み研究者の道を進むか迷っていた。その時、ふと思い出したのが、子どものとき読んだ『深淵』に登場するライブラリアン・マシンのことだった。コンピュータ科学を専攻して博士号が取得できる大学を調べてみると、ユタ大学がコンピューター科学の学部を新設したばかりであることを知った。ケイはすぐにユタ大学の大学院に進学し、研究者になることを決意した。

図形の編集方法を確立した「スケッチパッド」

大学院で所属したのが、アイバン・サザランド教授の研究室だった。サザランドの研究室では、スケッチパッドと呼ばれるシステムの開発研究がおこなわれていた。スケッチパッドは、現在の「お絵かきソフト」に近い。直線、四角形、円などの基本図形を入力し、編集することができる。もちろん、基本図形を入力してから、拡大縮小、変形などをして描いていくことができる。

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ディスプレイにライトペンを使って入力可能な「スケッチパッド」 Images By Wikipedia

このような図形の入力は、キーボードでは難しい。そこでライトペンが採用された。「お絵かきソフト」のような感覚だが、厳密にはCADソフトの原型だ。「ライトペンを使って、図形を編集する」という操作法はそれまでになかったので、その操作法の開発が研究の主目的となり、スケッチパッドで生まれた図形入力の“作法”は今日でもあたりまえのように使われている。

例えば、直線を描きたい時は、ライトペンを直線的に動かすが、どうしてもまっすぐに動かすことはできない。そこで、始点と終点を認識し、その間を結ぶ直線が描かれる。また、円も同じように、ライトペンでだいたいの円を描けば、ほぼその大きさの真円が描かれる。

また、オブジェクト指向の萌芽ともいえる機能も組み込まれていた。六角形を平面に敷き詰めた蜂の巣のような図形を描く場合は、適当な六角形を描く(ライトペンを動かしながら、6回ボタンを押すと、不定形の六角形が描ける)。もうひとつ、適当な大きさの円を描く。そこで、六角形のひとつの頂点にライトペンを当てて、ボタンを押し、それから円周上の任意の点にあててボタンを押す。これで、六角形が円に内接し、正六角形が一瞬で描ける。次に円を削除し、正六角形をコピーして複製していく。これで六角形を平明に敷き詰めた図形が描ける。

このようにスケッチパッドの特長は、一度描いた図のデータが保持され、自由に移動、変形、複製ができることだった。このアイデアにはエンゲルバートも注目していて、NLSにスケッチパッドの考え方が大いに取り入れられていることは先述した通りだ。

使いやすいコンピューターの鍵はソフトウェア

ユタ大学でスケッチパッドの開発に加わったケイは、その後、ARPAが資金を提供する様々なプロジェクトで研究を行った。有名なのはFLEXの研究プロジェクトに参加したことだ。このFLEXはユーザーが対話的にコンピューターを扱えるシステムを目指したもので、ブラウン管モニター、ペンタブレットなどを備えていた。しかし、ケイはあまり納得がいかなかったようだ。ハードウェアはユーザーに扱いやすい画期的なものが登場してくるものの、実際の操作は専門家でなければ使えない。それはスケッチパッドも同じだった。なにも知らない子供が初めてスケッチパッドやFLEXを使ったとしたら、果たして使いこなせるだろうか? ケイは鍵はハードウェアではなく、ソフトウェアにあるのではないかと思うようになっていった。

そんなときに出会ったのがLOGOだった。マサチューセッツ工科大学(MIT)で人工知能の研究をしていたシーモア・パパートとマービン・ミンスキーが中心になって開発していたプログラミング言語で、子供でも使えることを目指していた。実際に、1968年からはパパートは8歳から12歳の子どもを対象にLOGOを使わせる実験を行っていた。LOGOの最大の特徴はタートルグラフィックスと呼ばれる機能にあった。ユーザーは、タートルと呼ばれる点の動きをプログラミングする。たとえばFORWARD 100とすれば100ドット前に進み、LEFT 90とすれば90度左に曲がる。このタートルの動きの軌跡が描かれ、図形が描けるのだ。うまく変数やループを使いこなしてやると簡単な図形だけではなく、複雑な文様を描くこともできた。

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LOGOを利用して描かれた幾何学文様 Images By Wikipedia

ケイはこのLOGOの研究を見て、大きな衝撃を受け、「子どもでも使うことができるコンピューター」を作りたいと考えるようになった。鍵となるのはコンピューターそのものやハードウェアではなく、ソフトウェアだ。




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